いくつかの体験から、自分が本当にやるべきことを決めるとき、どう判断するかということについて考えてみました。
Voice of ちきりん
ソフィーは社会派ブロガーのちきりんさんのVoicy放送『Voice of ちきりん』のリスナーです※。
(※2021年8月現在)
このチャンネルは「執筆・発信活動の裏側について」を発信していますが、ソフィーの中では「人の行動やマーケットの仕組みに関する世の中の法則を解説」してくれるチェンネルととらえています。
ちきりんさんは日常で起こる具体的なことを例として使いつつ、普遍的な原理原則につなげて説明してくれるので、世の中で起こる事象の理解に応用可能です。
なので、社会で何かが起こったときに、「なるほど~、そういうことか~」とピ~ン!とくる瞬間が増え、生きているのが楽しくなるのです。
#029『表現者は表現するだけで嬉しい』 を聴いて
2020年10月24日に放送された『表現者は表現するだけで嬉しい』(注意:有料です)で、自分の中で個別に体験したことが、ひとつにつながった体験をしたので、そのことを綴りたいと思います。
それは、自分がやるべきことを見極めるには何が必要か、ということです。
ちきりんさんはVoicyを始めたときに
「聴いてくれる人の数は多くても少なくてもかまわない」
と発言しました。
するとリスナーからこういう質問を受けました。
「視聴者の数を気にしないのであれば、なぜ発信する必要があるのでしょうか?」
ちきりんさんれは「なるほど、こんな質問がありえるのか!」と思う一方で
「質問の意味がわからない」かったそうです。
(ソフィーなりの注釈:聴く人が多くなければ発信する意味がないと考える気持ちがわからない)
以下、ちきりんさんの回答の要点をご紹介します。
放送ではほかにも面白いことが語られていますので、ぜひ聞いてみてください。
- コンテンツクリエーター(表現活動をして発信している人)は、誰も見てくれなくても表現活動をする
- なぜなら表現することが自分にとって楽しいから
- そこに読者、視聴者の数が多くなくてはいけないという発想はない
- 評価がなければ続けられないのであれば、それは向いていないということ
- だから、作り出すのが大好き、発信するのが大好きという人だけが残っていく
つまり、誰にも評価されなくても、自分が大好きで楽しくてしょうがないと思えることをやるのが大切なのです。
ゴッホの殺気迫る画家魂
上記の放送を聴いて、ソフィーは画家のゴッホを思い出しました。
ゴッホといえば高級絵画の作者として有名です。
代表作の一つ『ひまわり』はバブル期に日本の企業に53億円で入札されたこともありました。
どんだけセレブな画家なんだって、思います。
でもソフィーが1997年にアムステルダムのゴッホ美術館を訪れたときに彼の生涯を知り、そんなイメージが変わりました。
まず、ゴッホは職業的にも学業的にも挫折を繰り返しました。
そして、28歳になって画家を目指します。
弟の経済的支援を受けながら、たくさんの絵を描きました。
その数、画家として生きた10年間に1,000点以上。
1年間に150点以上の作品を描いた年もありました。
売れっ子だったからではありません。
生きているうちに売れたのは数点だと言われています。
にもかかわらず、描き続けたのはなぜでしょう?
それは、誰にも見られなくても、評価されなくても表現したいから。
描きたくてしょうがないから。
ゴッホ美術館で年順に並べられている作品を鑑賞しているうちに、ふたつのことに気づきました。
ひとつは、同じ年に作られた作品がとても多いこと。
すべての作品がここに収蔵されているわけではありません。
しかしながら150点も描いている年があるのだから、それは当然のことでした
もうひとつは、年を追うごとに筆のタッチが力強くなっていくこと。
それはもう、作品のひとつひとつに抑えられないエネルギーが宿っているようでした。
ゴッホは何かにとりつかれたかのように描いていたに違いない。
それは誰にも止めることができなほど大きなエネルギーだった。
そんなことを肌で感じた体験でした。
『記者のち医者ときどき患者』 から職業について考える
ずいぶん前に医師の九鬼伸夫さんのエッセイ集『記者のち医者ときどき患者』(1999年出版)を読みました。
九鬼さんは、10年間新聞記者として働いた後に医学部に入りました。
どうして医師になろうと思ったのか。
そのきっかけと、九鬼さんの決心に対する周りの反応が心に残りました。
九鬼さんは記者をやめ、医師になることについて、多くの人からその理由を聞かれます。
そのたびに
「目の前にいる人のために働く具体的な仕事がしたい」
「高校生のときになりたいと思ったけどあきらめていた。
三十代になってある人から勧められて、やるなら今しかないと思った」
など、もっともらしいことを言っていました。
どれも本当だけど、自分の中でしっくりせず、伝えきれないものが残りました。
医学部受験の面接では「動機があいまいだ」とまで言わました。
そんな中、たった一度「この人はわかってくれた」と感じた体験がありました。
以下抜粋です。
その人は、米国のある町のショッピングセンターで、日曜日に風船をふくらませたり、破裂させて通りがかりの子供を驚かせて遊んでいた白人のオジサンである。
もちろん初対面だった。
子供が風船にひかれて遊び始めたので、こちらもベンチに腰をおろしてオジサンと言葉を交わした。
つたない英語で説明を始めた私をじっと見ていたその人は、すぐに大きくうなずくと、言った。
「わかった。それは君のインサイドから現れてきた。君はそれに従ったんだね」
なんだか涙が出るほどうれしかった。
誰に何を言われようと、やらずにはいられない。
自分の内面から湧き出てくるような希求。
そんなものがあって動く人は強いと思います。
それは自分に嘘をつかずに生きるということにも通じます。
なんだか涙が出るほどうれしかった。
もうひとつ、この本の中で紹介されている音楽家バーンスタインの有名な言葉が印象的です。
それは、バーンスタインが札幌に創設した若手音楽家のためのパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)の第1回(1990年)に来日した際にインタビューで答えた内容です。
「自分は音楽家になるべきだろうか、とあなたが質問するなら、答えはノーだ。
訊ねるなら、ノー。理由は、訊ねたから。禅問答みたいだろ?」
-中略-
「もしあなたが本当に望んでいるなら、あなたは音楽家なのだ。
誰も止めることはできない」
バーンステインはこの後、オブセッションという言葉を使ってメッセージを補足していた。
日本語にすれば強迫観念。
自分ではどうにもできない「とらわれ」として自覚される想念。
音楽家として生きるにはそれが必要だ、と。
ゴッホしかり、本物のクリエーターとはそういうものなんだろうなと思います。
また、それはクリエーターに限らず、何かを生業とする人にも共通することです。
自分の中で抑えられないもの、それをそのまま仕事にできる人は幸せです。
だけど、それができる人は限られています。
好きでやっていることが世の中に認められるのは、そして
それで生活できるだけの収入を得るのは難しいことだから。
だからこそ普通の人は「 視聴者の数を気にしないのであれば、
なぜ発信する必要があるのでしょうか? 」と思うのでしょう。
ワクワクセンサーの感度を高めよう
人生100年時代、ソフィーは最後まで健康に、心も経済的にも豊かに、そして後悔なく生きていきたいと思っています。
そのためには「ワクワクセンサー」の感度を高めることが大切という結論に達しました。
私たちの生活は、あらゆることにバランスが求められます。
特に女性は母として、妻として、主婦として、生活を回すことが求められます。
家事一つとっても何十種類もの作業をこなし、ときには同時に複数のことに気を配りながら動く必要があります。
あまりにも作業量が多いから、自分の好きなことにじっくり時間をかけて集中するのは難しいですよね。
ソフィーの場合、本がおもしろすぎてず~っと読んでいたくても、時間がくれば食事の支度をしなくてはいけないし、片付けもしなくてはいけません。
何をやっていても、時間で区切り、中断して他のやるべきことに移り、生活を回しています。
思えば、厳しい家庭環境だった子供のときからそうでした。
やらなくてはならないことを優先し、自制しバランスをとるようにして生きてきました。
おかげで得られたこともありますが、捨てたこともあります。
そんなソフィーにとって、自分の内なる希求は何なのかをつきつめることは難しいです。
今回、ばらばらに存在した思考をまとめ、自分がやるべきことを見極める方法について考えました。
そして、自分のワクワクセンサーを高めるために出した結論は以下の通りです。
- 自分が本当にやるべきことの基準は、ワクワクすること
- 自分のワクワクが何からくるのか、日ごろから注意を向ける
- たとえ今の仕事が好きで好きでたまらないわけではないとしても、その中で選択できる部分については、自分がワクワクできるようにする
- 日常的にワクワクできることを優先する
- そうすれば、「やるべきこと」は「やりたいこと」になる
- それがライフワークにつながるよう、注意深く観察し行動する
それでは、またね。